秋が闇夜を訪い、夜風が虫の音と草木の騒めきを運んでいた。庭先で咲く杜鵑草の花は月影に照らされ、青白く浮かび上がっている。冴え冴えとした居待月の下で、新左ヱ門は茫として己の手を眺めていた。
剣術を学び始めた幼き頃、掌に作っては潰していた肉刺も今や無く、ただかさついて硬くなった皮膚があるばかりだった。節くれだった指と骨張った手の甲には、僅かに血管が浮き出ている。数年前よりも確実に肉が落ちたそれは、否応なしに歳月の流れを感じさせ、小さく溜め息を吐いた。
「どうかしたのか?」
囲炉裏端に居た牧之介が湯呑を両手に立ち上がり、広縁に座している新左ヱ門の傍らに移動した。持っていた片方の湯呑を差し出し、そのまま男の隣に座る。
「ん」
「ああ、ありがとう」
温かいそれを口に運べば、酒精の香りが鼻を擽った。山で鹿でも鳴いているのか、鋭く甲高い音が時折響く中、暫し互いに無言でぬる燗を呑む。
「……それで?」
「衰えた、と思ってな」
「衰えた?」
「ああ」
やや眉根を寄せ、拗ねたような顔で牧之介は口を開いた。
「それは今日も一本も取れなかった私に対する当てつけか?」
頭を振り、新左ヱ門は先程抱いた感傷めいた心情を語り始めた。
実際、膂力は落ちていないものの身体の肉が落ちてきたのは事実であったし、髪にも何時しか白いものが混じってきていた。病と老いは待ってはくれない。逃れようと思っても逃れ得ぬもので、どのような人間であろうとも盛者必衰の理から外れることは不可能だ。
「まだそんな齢じゃないだろ」
「馬鹿を言え。年月は瞬きの合間に過ぎ行くものだ」
そう言って、男は自嘲気味に唇の端を歪める。
「お前はまだ若いが、この先私はどんどん老いていくのだな」
「私だって老いるぞ」
「…これから皺も増え、髪も徐々に白んでいくだろう」
「ますます男前になるなぁ」
「……身体も衰え、剣の腕も落ちるやもしれぬ」
「戸部ちゃんがそう簡単に弱くなるとは思えんがな」
「牧之介、真面目に──」
「聴いてる」
手を温めるように持っていた湯呑みに残った酒を一気に呑み干し、脇に置くと牧之介は新左ヱ門に躙り寄った。睨みつけられたわけでも、眼光が鋭いわけでもないが、距離を詰めた年少の者に何某かの気迫を感じ、年嵩の男はたじろぎそうになる。
半ば新左ヱ門の膝に乗り上げるかのような体勢で、牧之介は彼の手を掴んだ。
月明かりに薄紗の下から白い肌が透けている。頭の片隅では、早く室に入らなければ斯様な装いでは冷えきってしまう、と冷静な己が主張しているというのに、実際の新左ヱ門は、牧之介にされるがままであった。
掴んだ手を衿に導き、胴に触れされていく。風が冷たく肌寒いはずなのに、その肌は烈火のように熱い。
「どう思う?」
「どう、とは……」
「俺とお前が初めて見えた頃と比べて」
「……少し、痩せたか」
「うん」
「傷も増えたな」
「多少は」
「傍目から故、正しいかはわからぬが……最近は、傷の治りが昔よりも遅くなってきたように見える」
「ああ」
腹部、脇腹、肋骨の上、胸……と下方から順に触れさせた後、牧之介は小さく呟くように訊ねた。
「同じだと思わないか」
戸部ちゃんが変化しているのと同様に、私も変化している。年の差はあれど、それは同じことだと言えないか?
「それは……」
困惑した顔の新左ヱ門を無視して、その目尻にある皺に口づける。
齢を重ねたことの何が問題だというのだろう。見た目が変化するのがそんなにも重要なのか?
お前は自分のことを衰えただの老いるだのと言うが、それを私がどんな思いで聞くかなぞ想像もしないのだ。こちらは必死に差を埋めようとしているのに、どんどんと引き離されていく。俺が追われる者の気持ちをわからないのと同じで、お前は追う者の気持ちをわからないのだろう。だから、そうやって簡単に言えるのだ。
それに、私も既に二十を超している。世人からすれば、私も若者とは言い難い。
譬え新左ヱ門がどんなに老いさらばえようとも、その太刀筋が鈍ることも、信念が変わることもないだろう。お前の在り方は今も、きっと生の果てでも変わらない。だからこそ、お前が好きなのだ。
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泣いているのかと思った。
黙り込んだまま、尚も己の顔に唇を寄せる牧之介の眼が刹那、泣き出しそうに歪んだように見えたのだ。もっとも、実際には泣くどころか少しばかり不機嫌そうであったが。
目尻に額、頬などには口づけられるが、一向に口唇には落とされないそれを自分から奪う。驚いた様子の牧之介の唇を割り開き、仄かに温かい舌を吸えば、背に腕が回された。
とどのつまり、私は牧之介にみっともなくて、無様な姿を見せるのが嫌だったのだ。
無論、齢を経ることが惨めだと思っているわけではないが、いざ己がそうなるのだと考えれば、散々互いを曝け出していても、好意を抱いている者には、老醜を晒したくなかった。
いっそ取り繕える相手ならば、斯様に思わなかったであろうに。
一頻り、口吸いを繰り返してから解放し、新左ヱ門は牧之介を見つめた。
「──すまなかった」
「……お前が、衰えたとか老いたとか自分で思うならそれでも良い」
やや上気した頬で、ゆっくりと瞬きする。
「考えることは自由だし、他人が制約できることじゃない。…………でも、戸部ちゃんが爺さんになったとしても、俺はお前のことが好きだぞ」
ただ、それだけだ。
そう告げて、憧れと執着と思慕に、労りと愛情が綯い交ぜになった瞳が、新左ヱ門をまっすぐ見つめ返すものだから、男は何だか泣きたくなってしまったのであった。