古傷というのは、面倒なものだ。時折思い出したかのように痛みを訴えるそれが勲章になることはあれど、牧之介にとっては大抵の場合、煩わしいことだった。
冬になれば冷えて痛むのは言わずもがなだが、雨の日には疼くような不快感を伴った痒みを引き起こし、忘れた頃にまた鈍痛を繰り返す。とうの昔に治っている筈の傷口は、じくじくとした疼痛と厭わしい記憶を想起させる。背中の傷などはその最たるもので、幼少のみぎりに寺院という閉塞的な場で刻まれた傷痕は、身体だけでなく牧之介の矜恃をも蝕み続けていた。何せ剣豪として戦ってできたものではなく、誇りだと声高に述べられるものでもない。況してや刀傷でもないのだ。瞋恚のままに与えられたその痕は、己の弱さの象徴だった。
救いは、それが自分では見えない場所にあることと牧之介の自然治癒力が著しく高いことだろうか。おかげで寺に居た時分の傷は他に目立ったものは無く、それ以外では脇腹や脚などの無茶をして戦った時のものに限られている。
見えなければ無いものと同じと言ってしまえば過言だが、見える箇所にあるよりはずっと良い。そう思って痛みを紛らわせるのが常だったのに、と牧之介は小さく息を吐いた。
「痛むか?」
背後から心配げに尋ねる声に否と答えれば、再び温かさが背に触れる。新左ヱ門がかつて噛み破った創痕は、とうに塞がっているのにも関わらず、こうして口づけてくるのだ。
薄い唇が労るように、僅かに隆起した傷に触れるのを感じる。もう痛みも無く、新たにできたそれを気にもしていなかったが、どうやら牧之介よりも新左ヱ門の方が気に病んでいるらしい。
確かに噛まれた際は、声が出るほど痛かったものの、今では寧ろ嬉しささえ覚えているのだから、私もどうかしているのかもしれない。
心中でそう独りごちれば、つと指が右の腹の傷に触れた。他の肌よりも少し肉が盛り上がっている其処は触り心地の良いものではないだろうに、新左ヱ門の骨張った指は引きつった皮膚をなぞっている。何が楽しいのかまるでわからないが、そっと壊れ物にでも触るような手付きが妙に面映ゆい。
些か熱を持った気怠い身体には、敷布の冷たさが気持ち良かったというのに、このままではまた体温が上がりそうだった。
擽ったさに身を捩り、牧之介は新左ヱ門の方を向いた。立てた左肘に頭を乗せて、男は牧之介の動作を眺めている。会話は無いが、不快では無い。
室内の薄暗さに慣れた眼で、相手の胴の傷跡を探り当て、無遠慮に触れた。明るい場所でも、よくよく眼を凝らさなければわからない程に旧い傷を、優しく撫でてみる。
着痩せするのか、存外に筋肉質な胸から肋の上辺りを通り、引き締まった腹部に辿り着いた。
──ああ、なるほど。これは地図だ。
引き攣れた皮膚の感触を指先に得ながら、牧之介は唐突に合点がいった。
この先歩む道では無く、これまで歩んできた道の地図なのだ。余人が経験したことの全てが傷跡に表れるわけではない。だが、殊に刀を扱う者である限り、太刀筋に精神が表れ、身体には生き様が現れると言ったのは誰だっただろうか。
昔何処かで聞きかじったような言葉を思い出して、漠然と、ただ強くなりたいと思った。
「遠いなあ」
「何がだ?」
新左ヱ門の怪訝そうな声に、牧之介は生返事をして、ざらついて固くなった肌に軽く爪を立てた。
勝ちたい、強くなりたい、……悔しい。
埋まらぬ実力差にか、はたまたそれ以外の理由にか。何故そう思うのかは、自分でも理解しきれぬままだ。
愚公の努力は実を結び、彼の望みは叶ったが、それは神の手によるものだった。同じ愚公なれど、私は自分の力で成し遂げたいのだ。
心此処にあらずといった牧之介の様子に答えを得るのを諦めたのか、男の指は再び傷痕を探し始めていた。その掌がいつしか太股の傷に這うようになった時、漸く牧之介は口を開いた。
「……戸部ちゃん」
「どうした」
「傷にしか興味ないか?」
刹那の沈黙があって、噛みつくように唇が塞がれる。互いの髪が敷布に落ちる様は、さざめく波を思わせた。
「……一応、遠慮していたのだが」
「うん、知ってる」
そう言って口づけを返せば、更に深いものが与えられる。額の向こう傷を眼界に捉えてから、牧之介はゆっくりと瞼を閉じた。いつの間にか引き寄せられていた身体は、意識せずとも徐々に弛緩していく。
痕は跡になり、轍は道筋になり、波紋は波になる。
──俺はお前の痕になりたいのかもしれない。
触れ合う肌の熱を感じながら、そう思った。