諦めましたよ、どう諦めた

下校を知らせるチャイムが校舎に鳴り響いた。夕日が窓から差し込んで、廊下を橙色に染めている。校庭の方からは、まだ部活動に勤しむ生徒達の声が聞こえていた。陽は傾き始めているが、なおも気温は高く、じわりと背中に汗が滲む。
 誰もいない廊下を小走りで進めば、目的地はすぐそこだった。

 『社会科準備室』と記されたプレート板を見上げて、ひと呼吸おいてから勢いよく扉を開くと、見慣れた姿が視界に入る。
 「戸部ちゃん帰ろー」
 「お前な……いつもノックをしろと言っているだろう」
 椅子に座っている新左ヱ門は、眉間に皺を寄せて溜め息を吐いた。他の先生がいらっしゃったらどうするんだ、と続けられた言葉を聞き流して、壁際にあるソファーに鞄を放り出して座る。
 「この時間はセンセーしか居ないじゃん」
 それに最近では、戸部ちゃんの居るこの部屋に入り浸っていても誰も何も言わなくなっていた。それどころか、元忍術学園の教師達前世の知り合いからは同情するような顔を頂戴することもあるのだ。他の社会科担当の教員は職員室に居ることが多いし、来るとしてもせいぜい地図や授業に使う資料を取りに来る時だけだった。

 「それから、教師をちゃん付けで呼ぶんじゃない」
 「何で?」
 「下級生が真似をするだろう」
 「……ふぅん」
 クラスの女子だって、お前のことをあだ名で呼んでいるだろ、と言いかけて止めた。お前は覚えてないけど、俺のこの呼び方は前世からなのに。

 何を言っても無駄だと悟ったのか、新左ヱ門は職員用の机に向きなおって、手元に視線を落とした。
 「それ宿題?」
 「いや、先日の小テストだ。……花房。ここに居るのは構わんが、くれぐれも覗き込むなよ」
 肯ってその背中を眺める。空調が鈍い音を立てながら冷えた風を吹き出していた。
 ……信用無いよなあ。他人の点数なんざ微塵も興味が無いし、知ったところで何になるんだ。昔のお前なら──と思って、唇を噛み締める。やめよう。どうしようもないことを考えるのは。今世のこいつと前世の新左ヱ門を比べるなど、烏滸の沙汰だ。

 鞄の中から課題と筆記用具を取り出して長机に広げた。何かしていないと、追い出されてしまうのは目に見えている。一年の頃なんて、勉強すると言い張ってもすぐに放り出されていたから、しつこく授業やら教科書やらの質問をすることで少しでも長く居ようとしていた。

 高校に入学して、すぐに新左ヱ門を見つけた。あいにく、お前は私のことも皆のことも覚えていなかったが、それでも良いと思った。今は記憶が無くても、いつかは思い出すかもしれない。安易にそう考えていたのだ。

 一年目は嬉しさと期待でいっぱいで、二年目になって芽生えた不安は順調に成長し、とうとう三年目に突入した今年は諦念が胸中を占めている。
 戸部ちゃんの記憶は、何をしても戻らなかった。こうやって準備室に突撃しても、竹刀で勝負を挑んでも、無理やりこの部屋に居座ってみても、今世でも変わらず弟子になった金吾の話をしても、帰り道が途中まで同じなのを良いことに一緒に帰ってみても。

 (あいつが生きているだけで良いだろう? それで充分なはずだ)
 己にそう言い聞かせた。昔の私が知れば、剣豪がそんな弱気でどうするのだ、と言ったに違いない。たとえ覚えていなかったとしても、私と新左ヱ門はライバルなのだから。
 だが、他ならぬ宿世が俺を腑抜けにさせていた。


 シャーペンの芯が折れた音で意識を浮上させる。力を入れ過ぎてしまったらしい。俯いていた顔を上げれば、新左ヱ門はまだ採点をしているようで、姿勢良く座っていた。

 ──今世では、お前の背中ばかり見ている気がする。

 戸部ちゃんに恋人がいるという噂を聞いてから、諦めたはずだった。前世むかしの記憶がなくたって新左ヱ門は新左ヱ門だ。だから、顕世は別の形で良いから関係を築きたかった。ただの教師と生徒で終わりたくなかったのだ。けれど、何処かでやっぱり諦めきれなくて。

 お前は知らないだろう。
 初めてお前を見た時に走った稲妻や刀を交える高揚感。私の髪を撫でる優しい手に、繋いだ掌の熱さ。深みを帯びた穏やかな声音と褥で触れる温もり。
 びいどろの玉のように、一等綺麗なそれらを大切にしまい込んでいるなんてこと。

 記憶に縋って対等になれぬくらいなら、そんなものは捨ててしまった方が良い。なのに、未だに踏ん切りがつかないでいる。

 己の未練がましさに嫌気がさして、密かに息を吐いた。窓から見える薄明の空は、瑠璃紺色と赤支子あかくちなし色に染まっている。
 高校生最後の夏休みが始まろうとしていた。

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