言はで思ふぞ

雨上がりの空は未だ暗く、校内に植えられた梔子が陰鬱げに咲いている。光を与えられないままのそれは、濡れそぼって重たげな様子とは対照的に、華々しく芳しい香りを放っていた。制服に匂いが移りそうに思われるほど鮮やかな香気に包まれながら、牧之介はゆっくりと校門へと歩いていく。舗装されたコンクリートの道には所々に水溜まりができている。靴は既に湿り気を帯びており、帰り着くまでに水が侵食するのは時間の問題だった。

 湿り始めた靴に辟易としつつ足を動かしていれば、窓が開けられたのか左手の校舎側から生徒たちの声が聞こえる。テスト期間とはいっても、最終日となれば随分と賑やかだ。幾つか聞き慣れたその声の中に、かつて己が呼んでいた名前が響いて、牧之介の口内はざらついた。
 呼び始めた当初は眉間に皺を寄せて難色を示していたのに、いつしか諦めて好きなように呼ばせてくれた渾名めいたそれを今は別の人間が呼ぶのだ。
 適当に荷物を放り込んだ鞄が急に重く感じられ、心なしか肩まで痛くなってきた。彼女らに呼ばれて応対する新左ヱ門の姿が見えないのは幸いだった。

 誰も何も悪くないのだと頭では理解している筈だが、誰かを責めたくなるのは何故なのだろう。責めを受けるとすれば、私の他にはいないだろうに。なにせ前世の記憶を捨てきれないまま、あいつに対する感情もそのままで未練たらしく生きているのだから。

 むせ返るような花の香りが肺を満たしていく。咲いている場所も時代も異なっているというのに、その芳香は変わらぬままだ。往時の姿で在り続ける白花の様子は牧之介に羨望すら抱かせた。
 酷く疲れたような気分になって、戯れに足元の水溜まりを蹴り飛ばしてみれば、水滴が盛大に跳ね返り、靴だけでなくズボンの裾までぐっしょりと濡れる。靴下に染み込んだ水の冷たさに小さく溜息を吐いてから、牧之介は何事も無かったかのように歩き出した。

 こんなこと言ったって仕方のないことなのだが。

 「俺だけの呼び方だったのになぁ」

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