笛吹けども踊らず

黄昏時より一歩手前の時間帯の図書室には、薄い黄金色の光が差し込んでいた。本棚や長机が淡く照らされ、陽光が踊る。風通しの為に、僅かに開けた窓から微風と共に届く部活動中の生徒たちの声以外には、紙を捲る音だけが響いている。放課後の図書室は閑古鳥が鳴き、図書委員である牧之介の他には誰も居なかった。
 
 貸出カウンターの椅子に座り、手元にある本を閉じた牧之介は、無意識に詰めていた息を漏らした。もう読み終えたそれを、元の場所に戻そうと立ち上がる。新しい紙と古くなった紙の匂いが充満している棚には、窮屈そうに書籍が詰まっていた。
 
 ──図書委員を選んだのは正解だった。
 
 棚に並んだ本の背表紙を指先でなぞり歩きながら、牧之介は心中でそう呟いた。
 役員決めで立候補した際には、クラスメイトから似合わないだの何だの散々揶揄われたが、他の委員会よりは自分に向いていると思っている。
 それに、少なくとも一人の時は「高校生」でいなくて済む。この学校には前世での知り合いも多く、老年まで生きた己を覚えている彼は、時折、息苦しさを感じるのだった。
 何よりも、決められた仕事さえ終われば、利用者の対応以外は空き時間と同義で、その時間に課題や読書をできるのが良かった。もっとも、課題に関しては積極的にやりたいものでも無かったが。
 
 室内を無意味に一周した後、入口側の『今月のお薦め図書』コーナーをぼんやり眺める。作り物の秋らしい落ち葉と団栗が飾られたそこには、並べられていた本が疎らに残っている。各本の傍らには、紹介文やあらすじが記された小さなカードが置いてあった。
 
 来月は、図書委員のお薦め本を紹介するって言ってたなあ。紹介文を考えておくように、お達しがあったのをすっかり忘れていた。
 今は不在の司書教諭の言葉を思い出し、面倒くさいなぁ、と零す。
 委員会顧問である司書教諭は、席を外してから暫く戻ってこない。あの先生は話が長いのがたまに疵だ。大方、何処かで他の教員と連絡ついでに話し込んでいるのだろう。
 
 放課後の委員会活動は他の委員の都合が合わないことが多い為、専ら牧之介の担当だった。牧之介はどの部活にも入部していない為、基本的にバイトがある日以外は時間に都合がつく。その代わり、朝と昼休みは殆ど委員会の仕事をせずに済んでいた。牧之介自体もクラスメイトと仕事をするよりは、一人や司書教諭との方が楽であるので、何も不満は無かった。
 
「──、────!」
 
 聞き慣れた微かな声を不意に耳が拾い、入口から離れて、反対側の窓際まで向かう。弱い風に揺れるカーテンを払い避ければ、真下に見える運動場に新左ヱ門と剣道部員達の姿があった。
 
 走り込みの後だろうか。水分補給をする彼らの中には、やや疲れたような者もいるが、一緒に走ったであろう新左ヱ門は平然とした顔のまま次の予定を話している。暫く休憩してから剣道場に戻るつもりなのだろう。
 
 ……俺も剣道部に入れば良かったのか?
「馬鹿か私は」
 思わず湧き出た言葉を、一瞬で打ち消す。こんなもの、ただの世迷言だ。
 剣道部に入れば、新左ヱ門と顔を合わせる時間は増えるだろうが、それではまるで意味が無い。今でさえ、教師と生徒という対等とは言い難い関係であるのに、剣道部に入ってしまえば余計に対等では無くなってしまう。いくら戸部ちゃんが私のことを思い出してくれなくても、それだけは駄目だ。昔のあいつの想いを踏みにじることになる。
 どれほどライバルと言い張っても、宿世の埋まらない実力差は歴然だった。それでも、あくまでもあいつの俺への接し方は対等で、恋仲になってからはますますそれに拘っていた。それが顕世では、拘るのは私の方になったのだから、奇妙なことだ。
 
 胸から喉にかけて焼け付くような痛みを感じ、牧之介は苛立った様子で胸を叩いた。叩いたところで痛みは無くならないが、誤魔化すことはできる。ゆっくりと息を吐き、また眼下の光景を見下ろした。
 
 インクの染みに似た何かが、じわじわと自分を侵食しているかの如く、最近は息苦しくて堪らない。誰かに話してしまえば楽になるのだろうか。だが、誰に? 何となく事情を知っているようだが、見て見ぬふりをしてくれている忍術学園関係者か、新左ヱ門よりも早く記憶を取り戻してそれとなく気にかけてくれている剣豪たちか。
 己でもわからない感情を一体誰に告げれば良いのだろう。
 今の私を昔の俺が見れば──、いや、考えても詮無いことだな。まあ、前世の調子で新左ヱ門に付き纏えば、ストーカー確定だ。室町に規制法が無くて良かった。
 
 
 また情を交わしたいとは思わないし、友人になりたいとも思わない。そもそもライバルになりたいとも言えないし、その土俵にさえ上がれていない。
 刀も佩けない。勝負もできない。無い無い尽くしで唯一あるものは、一度で良いから、高校の一生徒ではなく花房牧之介として見てほしいという望みだけだ。
 
 皮肉なものだ。この胸に空いた穴だけが、お前と俺が生きた証であると伝えてくれる。そうでなければ、あの想い出さえも泡沫に消えてしまうだろう。どうせなら、空ろがずっと痛んでいれば良い。そうすれば、かつての記憶が幻ではないのだと信じていられる。
 ──人への接し方も、触れ方も、愛し方も、全部お前が教えたようなものなのに。
 
 休憩が終わったのか、剣道場へと向かう部員たちと新左ヱ門の姿を見送る。西日の色が暗くなりつつある中、地面に彼の人の影が揺れている。その影を踏んでしまえば、私のことを追いかけてくれるだろうか。そう考えて、牧之介は自嘲するように唇の端を歪めた。
 
 
 ああ、ほら。
 今日もお前は気づかない。

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