胸から下が随分と温かい。春の陽だまりを抱えているのかと思うくらいの温かさと心地よさに包まれている。はて、自分は何処ぞの縁側で午睡でもしただろうかと寝ぼけた頭で考え、胴に抱き付くものの感触でそれを否定する。じんわりと熱を伝える生きものは、冬の褥でその体温の高さを遺憾なく発揮していた。
場所は自宅ではない。薄目を開ければ、昨日投宿した旅館の客室だ。身体は厚く上等な掛け布団に覆われ、鳩尾あたりからは規則的な呼吸音が聞こえていた。就寝時には別々の布団で寝ていたというのに、どうやらまた夜中に潜り込んできたらしい。
旅の道連れは、夜具の下に隠れて殆ど姿が見えない。いくら冬だといっても、長い間潜っていて暑くないのだろうか。汗をかいてそのままの状態でいれば、後で風邪を引くだろう。
布団の膨らみを確認してから、無意識にその背中に回したであろう自分の腕を慎重に外して抜き出す。そして、起こさぬようにそっと手を伸ばし、ほんの少しだけ掛け布団を開けて空気を入れた。
「……ぅ、ン…………?」
呻き声のような寝言のような判別のつかないそれに、軽く捲っていた布団をつい落としてしまう。白布がばさ、と小さな音を立てて敷布に着地する。特段悪い行いをしているわけではないのだが、妙に焦ってしまった。
声の主は僅かに身動ぎしただけで、また穏やかな寝息を繰り返している。起きてはいないようだ。
普段の自分なら、先に目を覚ました後は身支度を済ませ、朝食の準備や日課の軽い鍛錬でもしているところだろう。だが、ここは旅先で、まだ夜明け前だ。薄暗いが起きてしまおうかと思いつつ、安らかな温度からはどうにも離れ難く、布団に身を預けたままでいる。
二度寝するか迷っていれば、しがみついていた熱が動く気配がして、慌てて瞼を閉じた。もぞもぞと何度か動くと、ゆっくりと離れていく。衣擦れの音がして、開けられた布団の隙間から冷気が忍び込んだ。
けほ、と小さな咳が静かな部屋に響く。暫く何かを探している気配がした後、控えめな電子音が鳴った。空調をつけたのだろう。温風が緩やかに流れてくる。
……生活音というのか、こういう音を盗み聞きするのは、妙にやましいことをしている気分になるのは何故なのだろう。
立ち上がった気配が遠くなり、ファスナーを開ける音、荷物か何かをごそごそと漁って取り出す音がした。
今世はあまり寝起きが良くないくせに、投宿するといつも先に起きるのだ。まるで遠足を楽しみにする子どものようだが、せっかくの休暇なのだから寝ていれば良いものを。
足音を忍ばせて、気配が再び近づいてくる。声をかけるタイミングを逃してしまった。狸寝入りなぞする必要もなかったのに、どうして始めてしまったのだろう。
また衣擦れの音がする。布団の傍に座ったようだった。寝ているふりがバレたのだろうかと考えていれば、額に何かが触れる。
肌を羽根で撫ぜられたかのような優しさで額に触ったやわらかなそれは、よく知っているものだった。
そして、動揺した私には気づかぬまま、頬を指でそっとなぞってから立ち去っていった。
襖が滑り、扉の開閉音が微かに聞こえた。部屋に備えられている露天風呂へと向かったらしい。
瞼を開け、幾度か瞬きを繰り返す。室内は随分と暖かくなってきていた。
……あいつは、私よりも早く起きると、いつも先程のようなことを行っているのだろうか。
何度も枕を交わしても、未だに手を繋ぐだけで耳を朱に染めているというのに。口吸いが好きなくせに、恥ずかしいのか自分からは殆どしようとしない。ふざけて迫ってきても、いざ私が捕まえると逃げようとして、顔は熟れた林檎のようになり、首まで紅くなる。
そうした常の様子を反芻して、口づけられた箇所をなぞる。ちょうど向こう傷のある辺りだ。
夜中や明け方などに、こちらの布団に潜り込んでくることには気づいていたが、私が眠っている間に斯様なことをしているのは全く知らなかった。
儀式めいていながら、慈しみに満ちた触れ方のあれを、あいつは何度繰り返して、私は幾度逃したのだろう。
流れるような動作からして、恐らく今日が初めてではあるまい。一体いつから行っているのかはわからないが、今まで知り得ぬままだったのが、やけに悔しい。
掛け布団を剥がして起き上がる。すぐ隣には、とうに冷たくなっている同じものが放置されていたが、後で一緒に整えておけば良かろう。それよりも、まずはあの心地よい体温を追うべく、露天風呂へと足を向けた。