悪癖、あるいは

薄い唇が首筋を優しくなぞっていく感触に、牧之介は堪えきれない吐息を漏らした。鎖骨辺りで微かに笑う気配を感じ、気恥ずかしさに身じろぎする。
 男はそのまま数度肩先に口づけると、いざ眼の前の獲物に喰らいつかんと口を開けた。
 「──待った」


 「……嫌か?」
 出端を挫かれた新左ヱ門は、お預けを食らった犬のような顔つきで牧之介を見つめた。先程までの甘ったるい雰囲気は既に跡形もなく消え去っている。
 「…せめて見えない所にして欲しいんだが」
 本音を言うと付け過ぎなので控えてほしいが、それは黙っておくことにする。言ったところで、叶わぬ願いであるのはわかりきっていた。
 「………………………………善処する」
 「そんなに渋るか!?」
 逡巡の後、顰め面で絞り出すように呟いた新左ヱ門に牧之介は頬を引き攣らせて叫んだ。やっぱり、見える所でも……と妥協しようと思うも、すぐにその考えを取り消す。いや、ダメだ。明日は何も無いが、明後日は仕事だ。もう春先で暖かくなってきたのに、首元まである服を着るのはまずい。そうなると痕を隠せないし、夏じゃないから虫に刺されたっていう言い訳は使えないし────

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 見えない所が良いと言われても、他所様から見える部分でなければ意味が無いのだが。何かを悩み出した牧之介を見遣り、軽く溜息をついた。こいつ、私が痕を付ける理由をまるでわかっていない。まさか、趣味か何かだと思っているのではあるまいな…………ああ、ここなら私以外は見えぬだろう。

 新左ヱ門は名案とばかりに、牧之介の脚の付け根の内側に強く噛みついた。
 「い゛ッ!?」
 思考の渦に嵌っていた牧之介は小さく悲鳴を上げ、脚を尾鰭のように跳ねさせた。
 「えっ、何でそこ!?」
 「お前が見えぬ場所に付けろと言っただろう」
 「言ったけどよ……」
 あれ、これ私が悪いのか。
 思わず首を傾げる牧之介を他所に、素知らぬ顔をした新左ヱ門は再び太腿に口づける。
 「ッ、そんなところに顔を近づけるなっ」
 慌てて脚を閉じようとするが、却って頭を固定してしまい、己を窮地に追い込むだけだった。やわらかな腿を舌が這い、唇が強く吸い付き、痛いくらいに犬歯が食い込んでいく。繰り返されるその行為に、程なく牧之介の口からはあえやかな声が零れ落ちていた。


 噛むという行為が特別好きというわけではない。たまに加減がわからず、やり過ぎてしまう時もあるが、そもそも、こいつ以外に痕を付けるなぞ試してみたこともなかったのだから、大目に見て欲しい。
 ただ、牧之介に痕を付ければ付けるほど、何かが満たされる気がするのだ。胸の底で暴れる獣じみたものが、自分が付けた噛み痕を見ると溜飲が下がったように落ち着くのを感じる。それに、咥内にこいつがいるという事実は私を安心させるものだった。やや申し訳ないとは思うが、馬鹿みたいに無防備な牧之介には、やり過ぎなくらいがちょうど良いのかもしれぬ。ただでさえ、悪意にも好意にも鈍感なのだから。

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 ……脚がちょっと痛い。主に太腿の内側がヒリヒリする。
 漸く終わった一連の儀式に、牧之介は小さく息を吐いた。ずっと掴んでいた敷布はとうに皺だらけになってしまっていて、こんなことなら意趣返しに新左ヱ門の服でも握っておけば良かった、と心中で呟く。

 こいつもよく飽きないなあ。前世も噛み癖は酷かったが、何だか悪化したように思うのは気のせいだろうか。
 新左ヱ門が普段より執拗に私を噛むのは、何か不安に感じている時だ。痕を付けることでこいつの気が済むならそれで良いんだが、問題は何も解決していない。いつもそうだ。勝手に自己完結して、私には教えてくれやしない。
 俺だって、子どもじゃない。第一、何年一緒に居ると思ってるんだ。


 満足げな顔で己の散らした花を指先で触れる新左ヱ門を見て、牧之介は込み上げてきた苛立ちを押し殺した。腹立たしいような悔しいような、判別のつかないその感情に、僅かな悲しみが混ざっていることには気づかないままだった。


 「……とべちゃんのそーいうところきらいだ」
 「えっ」

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