思草ありて

朝ぼらけの空は濃い藤色に染まり、たなびく雲までもが同じ衣を纏っている。夜の間に雨が降ったのか、樹々の葉は僅かに濡れ、水滴が煌めいていた。

 カーテンの隙間から漏れる光が、畳をやわらかく照らしている。僅かな気怠さと共に眼を覚ました新左ヱ門は、傍らの存在を確かめると、ゆっくりと身体を起こした。枕元に置いていた目覚まし時計の時刻を見て、普段よりもかなり早い時間に起きてしまったことを知る。
 二度寝をしようかとも思うが、既に意識は覚醒しており、眠気は殆ど無い。それに、次に目覚めた時の怠さを考えれば、自然とそんな気は失せていた。

 明け方になったばかりだというのに、暑くなり始めている部屋に涼をれようと窓を開ければ、穏やかな風が吹き込んでくる。男は窓際にそのまま座り込んで、暫しの間外を眺めた。

 ややあって、一人分の寝息だけがする空間に金属の蓋が開く音が響いた。手に持ったジッポーで咥えた煙草に火を点け、少しだけ吸うと、先端が赤く燃える。室内に籠らないように、口の中で吹かした煙を窓の外へと吐き出した。
 鈍く光る銀にアラベスク模様が刻まれたそれを弄びながら煙をくゆらせれば、片頬を爽涼な風が撫ぜ、その紫煙を攫っていく。

 背後で衣擦れと身じろぎする音がして、新左ヱ門は振り返った。布団の住人はちょうど起きたところで、眠たげに瞼を擦っている。
 「すまん、起こしてしまったな」
 「ん……ぉはよ」
 「ああ、おはよう」
 確と眼も開いていないまま、少し寝癖のついた牧之介は薄手の掛け布団から這い出して、男の側へと座った。
 まだ眠っていても良かったのだが、と思いつつも何とか睡魔を払おうとしている様子を見つめる。
 程なくして焦げるような臭いが鼻をつき、忘れていた煙草の灰を灰皿に落とした。再びそれを口元に運べば、何やら熱い視線を感じる。概ね目は醒めたようだ。
 「おもしろいものでもあるまいに」
 興味深そうに見ていた牧之介は怪訝な面持ちになり、首を傾げて口を開いた。
 「別におもしろくなくていい。俺が知らないお前を見たいだけだ」
 「……そうか」
 何となしに面映ゆくなって、もう片方の手で頬を掻いた。
 そう言えば、お前の前ではあまり吸う姿を見せていなかったなと呟けば、首肯が返ってくる。新左ヱ門の場合は、煙草を喫むというよりも、ほぼ吹かしているだけで、肺を煙で満たしているとまでは言えない。しかし、身体に良くないことは確かで、況してや非喫煙者の前では控えるべきものだ。ヘビースモーカーというわけでもなく、彼にとっては、仕事が煮詰まった時や気分転換に吸うぐらいのものだった。
 「そんなに物珍しいか?」
 「ああ。それに、昔は匂いがつくものなんか使わなかったろ」
 「まあ、一応忍びでもあったからな……」
 本職ではなかったとはいえ、学園に身を置いていたのだ。忍者にとって、匂いとは相手を知る情報であると同時に、己の情報をも晒け出してしまうものだった。それ故、自らの体臭や生活臭を消す為に、当時としては入浴の頻度も高い。かつての生家では聞香の経験もあったが、修行の身となり、やがて剣術師範となってからというもの、その類のことには頓と縁が無くなっていた。

 取り留めもなく考えていると、不意に距離を詰める気配がした。牧之介が不用意に煙を吸い込まないよう、新左ヱ門は指に挟んでいた煙草を窓側へと向ける。
 「どうした?」
 「私も吸ってみたい」
 思わず眉間に皺が寄った。
 「…………わざわざ肺を悪くせずとも良かろう」
 「それ戸部ちゃんも同じだからな」
 痛いところを突かれ、男は渋面のまま黙っていたが、暫くして溜め息と共に唇を開いた。
 「……一回だけだ」
 「ん!」
 承諾されたのが嬉しかったのか、途端に破顔した牧之介に、吹かす程度にしておくように注意してから新しい煙草を取り出そうとしたが、その手を止められてしまう。
 「今吸ってるやつが良い」
 仕方なく渡すと、些か不器用にそれを喫んでみせた。
 「お味は?」
 「……よくわからん」
 美味いのかこれ、と呟いた拍子に紫煙を吸い込み、途端に顔を顰めて咳き込む牧之介の手から煙草を取り返して唇に咥える。非難するような視線を受け止めつつ、背中を上下に擦ってやると、徐々に呼吸が安定していった。
 ゆっくりと呼吸を繰り返す姿を横目に、新左ヱ門は深く煙を味わった後、すぐにそれを灰皿へと強く押し付ける。そしてそのまま眼前の唇を吸い、驚いて開いた隙間から舌を捩じ込んだ。咥内で縮こまっている牧之介のそれを絡め取り、わざと水音を立てて隙間なく塞ぐ。無意識に逃げようとする腰を引き寄せれば、寝間着がずれ、肩口に咲いた花々が露になった。
 仄明るい光が差し込む部屋には、程なくしてニ人分の衣擦れの音が満ちていくのだった。

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