冬来たりて春遠く

北風が厳しく吹く季節になり、服の隙間から入り込む冷気が身体を容赦なく凍えさせている。校舎の周辺の樹々も葉を落とし、山茶花と椿だけが色鮮やかに咲いていた。
 ほとんど己の根城のようになっている準備室から廊下に出てみれば、吐いた息が白く染まった。そろそろ春休みの課題内容を考えておかなければならないが、こうも冷え込むと身が入らないな、と思いつつ歩き出す。教師でさえ皆、緊張感を欠いているのだから、受験生以外の生徒は尚更そうだろう。

 渡り廊下から外階段へ向かえば、冷たい風と共に賑やかな声が飛び込んできた。階下を覗き込むと、校庭で一年生たちがサッカーをしているようだった。どうやら今の時間は体育の授業らしく、寒がりながらも元気に走り回っている。
 その中に不本意ながらよく知る男子を見つけ、眉根が寄ってしまった。入学当初から私に付き纏っているその生徒は、ちょうどパスを繋いだところだった。

 しきりに話しかけてくる花房を初めは適当にあしらっていたが、いつの間にか用も無いのに社会科準備室を訪れるようになっていた。それを摘み出していれば、今度は授業の質問やら教科書の疑問点やらを携えてきた。教師としては質問がある生徒を無下に扱えるわけもなく、寧ろ勉学に励む姿勢そのものは、どのような動機であろうと歓迎すべきものである為、休み時間や放課後等に彼の訪問を受け入れている。
 最近では、他の社会科担当の先生方とも顔馴染みになったのか、花房が来ない日は「今日は来てないの?」などと尋ねられる始末で、妙な敗北感を味わっている。

 あの生徒が何を思って私に固執しているのか皆目見当もつかぬまま、早一年が過ぎようとしていた。訊ねたところで明瞭な答えは返って来ず、上手くはぐらかされている。加えて、やたらと勝負を挑んでくるが、その理由もわからない。無論、素人と試合などできない為、その都度断っているが。


 ──そんなに私と勝負をしたいのならば、剣道部に入れば良いだろう。

 毎回断るのも大儀になりかけた頃、そう告げたことがあった。
 実際には入部しても、専ら生徒同士で打ち合いをさせるのだが、時折顧問である私が相手となって地稽古を行うので、彼の言う「勝負」に適うのではないかと思ったのだ。
 そして、すぐにそれを後悔した。
 

 一瞬、本当に瞬く間と言って相応しいほどの時間だった。何気なく見た彼の顔が悲痛に歪んでいたのは。憔悴、痛み、悲嘆、落胆──様々な感情が入り混じった今にも泣き出しそうなその顔を目にして、謝罪しようと開きかけた口は、すぐさま話を逸した生徒によって閉ざされた。既に先程までのことは何も無かったかの如く、いつもの花房に戻っていて、まるで白昼夢でも見たかのようだった。だが、あの表情をさせたことを酷く後悔した。私の不用意な発言の何かが相手を傷つけたことは確かだが、訳もわからず詫びるのは失礼だと思えば、機を逸して良かったのかもしれない。中身の無い詫び言は、もっと彼を苦しませてしまっただろう。


 空気を切り裂くような甲高い笛の音が響き、体育教師が試合終了を告げている。あの様子では、花房がいたチームが辛勝したのだろう。ジャージ姿の男子生徒達が校庭脇に駆けて行く。クラスメイトに話しかけられ、笑顔で答える彼の姿に、口内がざらついた。

 本当のところは、あの生徒とあまり関わりたくないのだ。花房が入学して以来、以前からごく稀に感じていた違和感が頻度を増していた。今までそれは、竹刀を握った時や腰の軽さ、知人に紹介された弟子入り希望の少年に出会った時などに感じるものだった。しかし、彼が私に語りかけ、あの真っ直ぐで、それでいて物言いたげな眼が私を見る度に、傷の上にできた瘡蓋をむりやり剥がされそうになっている気分を味わうのだ。何かが違う、何かを忘れている、そう考えることすら厭わしい。傷口は塞がりかけているはずなのに、じくじくと疼き、痛みと忌避感が増していく。
 一生徒に斯様な感情を抱くのは間違っているが、淀んだ思考は歯止めが効かず、沼底に引きずり込まれていく。違和感の原因を明らかにしたいと思えども、曝いてしまえば今の己には戻れない予感がしていた。情けないことに、私は変化を恐れているのだろう。

 抱えた書類を落とさないように悴んだ手を擦り合わせる。随分と長い間、油を売ってしまった。休憩の時間になったのか、運動場の生徒たちは一様に座り、思い思いに過ごしている。
花房も春には二年生だ。新入生が入学するまでに、いい加減あの妙な呼び方を止めさせなければ、示しがつかない。大人しく止めるとは思えないが、言うだけは言っておかねばなるまい。
 暗いコンクリートのきざはしに光が踊る。踏み出した足は、やけに重く感じられた。

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