ペチュニアは枯れない

──早く帰りたい。
 現在の戸部新左ヱ門の脳裏はこの一文で満ちていた。
 溢れそうになった溜息を呑み込んで周囲の様子を伺う。煌々と輝く灯りの眩しさに眼を細めた。耳障りな騒めきに眉根を寄せたくなるのを耐え、手に持ったグラスを口に運ぶ。僅かに苦味を含んだ酒精が喉を通っていった。

 人付き合いは不得手と言う程ではないが、得意と言うわけでもない。剣豪達や忍術学園の教師達であればまだしも、その他の交流は今世でも積極的に持とうとは思わなかった。
 しかし、社会人たるものそうも言ってられぬもので、避けられない催事は存在する。それが以前、世話になった人物や知己の者が出席する祝賀会であれば尚更というもので、況してや今回のように己が審査員を担当した新人賞の授賞式に参加しないという選択肢は無かった。

 知人や日頃から世話を受けている者には挨拶を済ませ、本日の主役にはお祝いの言葉を述べたのだから、正直帰っても良いと思うのだが。
 勝手なこととは理解しつつも、新左ヱ門はそう考えざるを得なかった。祝賀会に招かれるのは初めてではないが、何度参加しても一向に慣れる気配も無く、やたらと話しかけてくる女性達をいなすので精一杯である。
 おかげで碌に食べられず、先程から酒しか口にできていない。この場に牧之介が居れば、こっそり自分のノンアルコールドリンクと換えてくれただろうが。断りきれず勧められるままアルコールを摂取したのが悪かったのか、鈍く痛み始めている頭を誤魔化すように、グラスの液体を飲み干すのだった。

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 さらさらとした何かが肌に触れていた。ひんやりしたそれは、どうやら己の身体の下にあるらしい。視界が暗いことで、初めて眼を閉じていたことを認識する。

 殆ど気絶するように眠っていた新左ヱ門は、泥濘んだ道のように重い瞼をこじ開けた。真っ先に飛び込んできた白い電光に呻きつつ何度か瞬きを繰り返すと、見慣れた天井が目に入った。
 「牧之介の家か……?」
 どうして此処に、と呟いた声は掠れており、新左ヱ門は顔を顰めた。肌触りの良いシーツの上にのそのそと起き上がり、殺風景な狭い部屋を見渡す。最低限の家具だけが置かれた室内に、不釣り合いな程の本。壁に掛かった時計の短針は、十を指していた。

 僅かに揺れる視界をはっきりさせる為、ゆっくりと瞬きする。ジャケットは部屋の片隅でハンガーに掛けられていた。ついでにネクタイも外されている。脱いだ覚えは無いので、牧之介が脱がしてくれたのだろう。そもそも、この家まで来た記憶もまるで無いのだが。

 自身が眠っていたベッドに腰掛けたまま、近くの丸テーブルの上を見遣る。そこには数冊の本が置かれていて、蜜蜂の生態、養蜂、蜜蝋の作り方、文学と蜂──等々、それらは全て蜂に関係する物であった。恐らくライターの方の仕事だろう。だが、あいつにしては随分と珍しい分野の記事だ。何かあったのだろうか。ぼんやりとそう考えていると、部屋の扉が開いた。

 「お、起きたか」
 「……おはよう?」
 「おはよう」
 黒のパーカーに半ズボンを履いた牧之介は、髪をタオルで拭きながら新左ヱ門の顔を心配げに覗き込んだ。
 「気分は?」
 「悪くないが、頭が少し痛い」
 「そうか。でも鎮痛剤は念の為やめておこうな」
 ゆっくりと肯き、ジャケットの礼を言う。牧之介はぱちり、と瞬きをして口を開いた。
 「どこまで覚えてる?」
 「…悪いが、此処にどうやって来たかも記憶が無い」
 やっぱりか、と首を縦に振り、新左ヱ門の足元に座りこむ。よく見れば、牧之介の着ているパーカーは新左ヱ門が昔着ていた物だった。
 以前、家に泊まった際、着替えを持っていなかった牧之介に貸し、ついでに持って帰らせた物だが、まだ着てくれていたのか。そういえば、渡した時もやけに嬉しそうにしていたのを覚えている。
 思わぬ収穫に新左ヱ門の目元は緩んだが、牧之介の次の言葉にすぐそれは見開かれることになる。

 「じゃあ吐いたのも覚えてないか」

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 「──つまり、祝賀会で空きっ腹に多量のアルコールを摂取した私は、解散後その足で何故かお前の家へと向かい、夜にも関わらず招き入れてくれた家主に何の説明もしないまま嘔吐した挙げ句に、水まで飲ませて貰って一人寝ていたということか…?」
 「大体そんな感じかなぁ」
 「私は馬鹿か??」
 「酔ってたし仕方ないだろ」
 戸部ちゃんは顔にあんまり出ないから、誰も気づかなかったんだろうし。…何処かで行き倒れてなくて良かった。

 そう続けられた牧之介の科白に顔を覆う。控えめに言って最悪である。三十路も半ばでこの体たらく。醜態を晒すにも程がある。一回りも年下の者に、一から十まで面倒を見て貰った己の不甲斐なさに溜息を吐きそうになるが、無理やり抑え込んだ。嘆息したいのは牧之介の方であろう。

 ふと胸中に浮かんだ考えに顔を引き攣らせつつ訊ねる。
 「もしや、お前の服に吐いた、のか、…」
 そうでは無いと言ってくれ、と半ば懇願するような気持ちで牧之介を見遣るも、気まずげに眼を逸らされた。
 「まあ、どっちみち風呂はまだだったし」
 それに、殆ど液体だけだったから大丈夫だぞ。
 「夜分に迷惑をかけて大変申し訳なく──」
 「待て待て待て、実はまだ酔ってるな!?」
 ベッドから下り、床にめり込む勢いで頭を下げるが、牧之介に無理やり上げられてしまった。穴があったら入りたいどころでは無い。寧ろ今から自分で掘るので鋤をくれ。そして大人しく埋まっておこう。

 「本当にすまない……」
 心なしか痛んできた気がする胃を摩る。本当に私は何をしているんだ。
 「それより、何か食えそうか?」
 「あ、ああ……」
 ちょっと待っててくれ、と言った牧之介は部屋の外に消え、程なくして一人用の小さな土鍋を盆に載せて戻ってきた。よくわからぬまま、慌ててテーブルの上の本を床に下ろす。
 土鍋の中では卵と葱のおじやが湯気を立てていた。
 「熱いから気をつけろ」
 些か戸惑いつつ食べて良いのか尋ねるが、当たり前だろうと言わんばかりの顔を向けられる。最早、上げ膳据え膳だ。
 手を合わせてから、蓮華でおじやを掬う。ささみも入っていた。柔らかな卵の味が口中に広がり、思いがけずほっとする。

 たった数時間程度、何も口にしなかっただけだというのに、久方ぶりのまともな食事のようだった。何となしに勿体無く感じられ、ゆっくりと食べ進める。
 先程から気になっていた蜜蜂の本について尋ねると、牧之介は少し笑った。
 「ああ、それ元々俺の仕事じゃなかったんだ」
 「…どういうことだ?」
 何でも、別の人間が担当する筈だったが、その男が虫嫌いかつ集合体恐怖症で、仕事にならなかったらしい。半泣きで断られた挙げ句、困り果てた編集者によって牧之介にお鉢が回ったということだった。
 「取材に行くのに、蜂の巣を見るのも怖いって言われたらどうしようもないよなあ」
 頷きながら、最後の一口を口に運ぶ。美味しい。
 「無理やり押し付けられたわけでは無いなら良い」
 「何だ、心配してくれたのか?」
 揶揄うかのように笑う牧之介に、ほんの僅かに逡巡してから首肯する。
 「お前は危なかっしいからな」
 「……今日の新左ヱ門には言われたくない」
 まことに御尤もであった。

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 漸くシャワーでも寒くない時期になってきたなと思いながら、新左ヱ門はまだ少し濡れている髪をタオルで乱雑に拭き上げた。

 食事まで用意して貰い、終いには風呂まで借りることになってしまった。牧之介の家に泊まるのは初めてでは無いとは言え、こうも何から何まで世話になると、我ながら嘆かわしい。かてて加えて、断片的に思い出してきた己の醜態にますますいたたまれなくなってしまう。唯一の救いは、あいつ以外には迷惑をかけていないところだろうか。

 新左ヱ門は軽く息を吐くと、部屋の扉を慎重に開いた。深夜ともなれば、既に眠っているだろうと思っての行動だったが、当たらずとも遠からじで、牧之介は寝台の上で座ったまま船を漕いでいた。

 小さく声をかけ、その身体をそっと横に倒し掛け布団を被せる。カーペットの上で寝ようと新左ヱ門は床に座ろうとしたが、不明瞭な言葉を呟いた牧之介が布団を捲り、ぺしぺしと自身の横を叩いた。
 入ってこい、ということらしい。

 五秒ほど躊躇したものの、新左ヱ門は電気を消して大人しく布団に潜り込み、牧之介の隣に収まった。もぞもぞと動く身体を抱きかかえて首元に顔を埋め、そのまま息を吸う。
 牧之介からは、石鹸の香りとほんの少し甘い匂いがした。

 それは今夜、彼が居た場所とは大違いだった。様々な人間が集まるあの場所では、香水やら整髪剤やら、近寄ってくる女性の化粧品の香りまでが混ざって鼻が痛かったのだ。おまけに混ざりあったそれらのおかげで頭痛まで誘発される。牧之介よりも嗅覚が鋭くないとはいえ、人よりも五感に優れている新左ヱ門には辛くて仕方がなかったのだ。

 己も同じ香りの石鹸を使った筈なのに、この違いは何なのだろう。寝ぼけて抱きついてくる牧之介を良いことに、新左ヱ門は確かな安らぎの中、腕の力を強めるのだった。

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