それは埋み火にも似た

薄暗い苫屋の外では小夜時雨が降り続いていた。綻び始めた桃の花はその身をしっとりと濡らし、重たげに揺れる。東雲が訪れていたならば、花弁の 一枚ひとひらごとがよく色づいているのが見えただろうが、墨を流したような闇の中では何もかもが朧げだった。

 炭櫃の炭が小さく爆ぜ、灰を被せたそれから仄かに赫が燻っている。衣擦れの音と共に縹色の小袖が古びた床に落ち、くぐもった声が零れた。
 床板が軋み、組み敷かれた牧之介の顔を囲うように男の髪が流れ落ちる。
 毛先が顔や胸に触れ、その擽ったさに軽く身をよじると下腹部の圧迫感が更に増した。上擦りそうになる声を噛み殺して、すぐ側に垂れる一条の黒に手を伸ばす。しかし、気を逸らしたことを咎めるかの如く右肩を甘噛みされてしまった。

 幾度も枕を共にしても、最中に顔を見られるのは慣れない。だが、新左ヱ門の髪が檻のように己の顔を囲うのは存外嫌いではなかった。
 戦慄く柳眉に、上下する喉仏。気づかわしげに頬を撫でる指と堪えきれなかった熱い吐息。それから、低い声音で囁かれる私の名前。
 そういったものの全てを目に、耳に収めることができるのは、この瞬間だけだと思うと、あたかも憂世に二人きりかのような心持ちになるのだ。
 ……それに僅かでも悦びを感じてしまう私は愚昧なのだろう。

 胸中に広がっていく野火に気づかぬふりをして、牧之介は眼を伏せた。

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 深い眠りの淵から浅瀬へと引き上げられ、微睡みの渚へいざなわれていた。心地よさを振りきって、些か重い瞼を開ける。煎餅蒲団に触れる顔が寒い。

 春先の雨は氷雨とは違った冷たさを纏っている。既に止んでいるようだったが、濡れた土の匂いと肌寒さが身に沁みる。薄明が訪れたのかと思いきや、未だ暁も遠い時間帯であるらしい。鳥の鳴き声はおろか虫の声さえも聞こえなかった。

 傍らで眠っていた筈の温もりを探す。囲炉裏端に丸まった背を見つけ、上衣だけを羽織った男の後ろから抱え込むように座った。
 「悪い。起こしちゃったか」
 「いや……眠れなかったのか?」
 かぶりを振った牧之介は火かきで灰を掻き分け、埋まっていた燠を探り当てた。
 「ちゃんと寝たぞ。少し寒かったから火でも焚こうかと思って」
 以前の住人が残していった炭が空気を得て明るく燃える。赫がその横顔を照らし、ぬばたまが煌めいていた。

 火かきを置いた牧之介の乾燥気味の髪を撫ぜた。適当に自分で切ったのか、雑に切り揃えられたそれを指で弄う。
 「髪結い処で整えれば良いものを」
 「……他人ひとに頸を晒したくない」
 にべもなく断られてしまった。
 「私にはよく見せているではないか」
 「新左ヱ門は良いんだよ」
 ほんの少し拗ねたような口ぶりになった牧之介のうなじに唇を落とす。
 きちんと切り揃え、椿油でも塗ればさぞかし艷やかになるだろうが、それを良しとする男では無いだろう。 
 (こいつの髪を下ろした姿を見るのは私だけだ)

 こっそりと口角を上げ、かいなの中の熱を抱きすくめる。醜い私にどうか気づいてくれるな、と思いつつ、髪から覗く耳が朱に染まっている様子に笑みを深めた。

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