──雨が窓を叩きつける音は子どもが廊下を走る音に似ている。
 パタパタと強弱をつけて雫がガラスを打つ音に意識を浮上させ、牧之介はぼんやりとそう考えていた。

 天気予報は外れたらしい。明後日から雨が降る予報だったが、深夜の間に降り出したのか、ゆっくりと眼を開ければ、朝方にもかかわらずカーテンの向こうは薄暗い。背中に回る腕と半ば押し付けるような状態で顎の下に位置する頭の温度を感じながら、牧之介は新左ヱ門を起こさぬよう枕元の目覚まし時計に手を伸ばした。
 「……五時前か」
 学生の時分から使用しているそれは、設定時刻になると古めかしくも騒々しい音を立てるのだが、今は静まり返っている。アラームを切り、再び元の場所に置いた。

 昨日──厳密には最早今日だったが──の様子を考えれば、新左ヱ門はいつもの時間にまず起きられまい。何せ胃に殆ど何も入れていないというのに、随分と酒を呑まされたようだったから。そもそも、前世も今世も大して呑む方ではないのに、顔に出ないせいで未だに何も知らない人間からは酒に強いと思われているのだ。あいにく雨も降っているから、二日酔いと低気圧の最悪の組み合わせで、起床時間は遅くなるだろう。
 それに、俺もここのところ幾つか締切が重なって徹夜続きで眠くて仕方がない。今日ぐらい遅くまで寝ていても許されるはずだ。

 つらつらと思考を巡らせてから、どうにかこうにか枕の下のスマートフォンも取り、念の為に設定しておいたタイマーを全て消去する。泣きつかれて頼まれた原稿は既に送ってあるし、直近の仕事も無かった。無機質な音で新左ヱ門を起こしたくはない。最後にマナーモードを設定してから、また元の位置へと戻そうとするも、僅かに聞こえた声に動きを止めた。

 「…………寝言か?」
 中途半端に腕を上げ、そのまま暫く息を殺していた牧之介だったが、新左ヱ門はまだ夢の中にいるようだった。規則的な呼吸を繰り返す様子に小さく息を吐いて、スマートフォンを頭の下に押し込んだ。
 途端に図ったかの如く、強く抱き締められたかと思えば胸元に頭が埋められる。つい呻き声を上げつつも、男の背中をゆるゆると撫でた。本当に起きていないのか訊ねたくなったが、黙って抱き枕の役目を甘んじて受け入れる。

 (肋骨に骨が当たって微妙に痛い)

 新左ヱ門の髪からは自分と同じ洗髪剤の香りがしていた。数時間前までの酒のにおいよりもずっと良い。酒だけならまだしも他人がつけていたであろう香水の残り香までもが服に纏わり付いていて、鼻が痛くて仕様がなかった。
 人付き合いが得意というわけでもないのに、面倒な祝賀会なんざに参加したから疲れているだろうし、当分は目覚めまい。
 牧之介はややうんざりとして、新左ヱ問の髪に鼻を埋めた。眠っている男にではない。不快な記憶を思い出した為である。
 出版社主催のパーティーには当然、招かれたこともあるが、実のところ片手で数えられる程度しか参加したことはなかった。大抵の場合、立食形式であるので、前世の牧之介を知る人物ならば、「あの牧之介が飲食の機会を逃すはずがない」と口を揃えて言うだろうが、当人にとっては頗る面倒なものという認識故に殆ど出席していないのだ。新人賞を受賞してからというもの、斯様な場では嫌味と当てこすりを言われることが多かった為、各担当編集者にはその旨を伝えていた。彼らも心得たもので、余程のことでなければ無理矢理参加させようとはしない。愛想良く対応できても受け流すことは下手なのだ。何も自ら災厄に赴く必要はない、というのが牧之介の持論である。

 不愉快な回想を振り切り、些か寝癖のついた頭に顔を埋めたまま、瞼を閉じる。湿度で跳ねがちな自分とは大違いの髪質だった。起きた時には寝癖が更に悪化しているかもしれないが、宿賃と思って諦めて貰いたい。いつもとまるで逆だ、と胸中で呟いた。


 また雨が走っている。春の花々を咲かせる恵みの雨たる催花雨だ。花が咲けば、蜂が訪れ実を結ぶだろう。
 シャンプーと柔軟剤の仄かな芳香に包まれながら、牧之介は規則的な呼吸音を立てる新左ヱ門の背を再び幾度か撫でた。

 ──ああ、やっぱりこっちの匂いの方がずっと良い。

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